二代
[1917年(大正6)頃 - 1940年(昭和15)頃]
二代宮川香山こと半之助は初代香山の兄長平の子で、長平の死後養子として迎えられた境遇であった。1870(明治3)年に初代香山が横浜に移住する際にも行動を共にし、幼い頃より作陶を共に行った。明治初期の高浮彫り作品には半之助の号「半山」の銘が記されている作品が多数発見されており、20歳の頃からすでに香山の右腕として活躍をしていた。また、海外で開催された万国博覧会には、初代の名代として現地に赴き積極的に海外の窯の視察も行っている。
初代香山がこの世を去った翌年1917(大正6)年7月、宮川半之助は二代香山襲名披露を兼ね、数十点の初代の作品とともに最新作を自邸に展示した。初代香山の精神と技は、二代香山にしっかりと受け継がれ、二代亡き後もまた三代香山へと継承されたのである。
しかし1945(昭和20)年5月29日、市内中心部を襲った横浜大空襲の業火は三代香山とその家族、従業員の命を犠牲にした。眞葛窯は閉鎖に追い込まれることになったのである。後に三代香山の弟の智之助が四代香山を名乗り復興を試みたが、食べるものにも困った戦後の時代で困難を極め、眞葛窯はその歴史に幕を閉じることになるのである。