初代宮川香山と工房眞葛窯

初代宮川香山ほど、作風を変化させていった陶工は少ないであろう。香山は、富国強兵と殖産興業を掲げる明治政府の精神に共鳴するように、外国人のニーズなどに合わせ、常に質の高いやきものを生み出し続けた。

香山について、父とよく眞葛窯を訪問していたという横浜出身の画家 有島生馬は、次のように語っている。

「香山翁はぴかぴか光るたちのはげ頭で、一見坊さんのようだったが、その眼光は鋭くはげ頭と光を競っていた。ちょっと近頃のピカソを見るようで、安心立命どころか、闘志満々、いまにも西京弁の毒舌が火を吹きそうであった。陶芸の衰微した当時、京の真葛原から新開地横浜に出て来て、外人相手にどしどし多数の名作を産出し、日本陶器のため一人で気を吐いていた」
(『中央公論記念特大号』1965年)

香山の眞葛窯は、明治の日本が世界に誇った工房である。眞葛窯では、博覧会への出品作や、手本として製作したりする作品(このような作品は、初代香山没後、二代、三代により遺作として世に出されることもあった)等を、香山一人で製作することも多々あったが、職人たちの手による製作も行われていた。轆轤や細工、そして絵付けなど、各工程において、高度な技術をもった職人が、持ちうる限りの力を出し切って製作に従事していたのである。
いわゆる工房というと、大量生産だけが念頭に置かれ、芸術性に乏しいクオリティーの低いものが製造されているイメージを持たれるが、初代香山の眞葛窯では極めて上質な作品が製作されていた。工房として、香山の思い描いたイメージどおりの作品を作り上げるには、優秀な職人を集め、そして彼らに高いモチベーションをもって仕事をしてもらうことが重要であった。幸いにも香山は、職人たちが敬う技量と感性、そして人間性を兼ね備えていた。
文化の都京都で、代々やきものを生業とする家に生まれた香山は、幼少の頃より絵も学び、和漢の陶磁器に精通していた。陶工としての腕前も、横浜に窯を築く以前から、岡山の虫明に窯の指導のため招聘されたり、また薩摩藩家老 小松帯刀からも苗代川焼の改良のためぜひ薩摩に来てほしいと依頼されるほどであったという。そんな香山の優れた技量と感性に呼応するように、優れた職人が横浜の眞葛窯に集ったのである。

弟子の井高帰山は、香山について次のように語っていたという。

「香山翁は芸術上のことのほか、仕事や日常の規律のようなものには到って厳しく、徒弟たちは翁をあだ名して「もーりん(巡査のこと)」とか「ジャンジャン」とかの呼称を口にした。「ほーれ『もーりん』が来なはった」などと告げ合った。翁は、仕事が思うに任せなかったり、督励をしたりするとき、下げた両手を握って尻を叩きながら、注意やら励ましやらを、京都弁でちょっと押し出すような調子でして巡ったそうである。一方徒弟の可愛がりかたは無類で、親許、親類をはなれ故郷を遠く隔てた者たちには、時には親に時には神仏に見えた事もあるだろう。割合と待遇も良く、決してよそに気を反らせるようにしなかった」
(「香山先生のことなど」展覧会図録
『宮川香山展図録』 読売新聞社、1986年)

「特に香山先生が言われたことは、何か焼きものを頼まれたときに「これは俺の所ではできない」というものがあってはいけない。辰砂でも、青磁でも染付でも、下絵の色入のようなものでも、信楽、丹波、備前、九谷、例えば色絵のものとかを注文してきても最高のものをつくりなさい」
(二代井高帰山談話『有隣 第403号』)

このように香山は、やきものに関する様々な既存の技術を高いレベルで習得しただけではなく、新たな釉薬や釉法なども開発し、ニーズと進化というものを常に意識しながら作風を変化させていったのである。
しかし香山の作陶人生において、常に一貫して変わらなかったものもある。それは、決して手を抜かない上質な仕事と、「日本固有の美」に対するこだわりであった。
初代宮川香山の作品には、欧米諸国に負けてたまるかという、明治の日本人の熱い心意気と誇りが宿っているように思えるのである。

山本博士

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